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Monday, January 16, 2012

017. まさこちゃんの、わたしたちの、新世界






まさこちゃんの写真展が行われている。

その前から彼女のブログをちょこちょこ読んではいたものの、まさこちゃんと出会ったのは去年のこと。「写真家・中川正子の311以降」といった部分がすごく強いイメージだったので(詳しくは彼女のブログを読むとわかると思う)、実際会ってお話したときに、なんてきらきらした素敵なひとなんだろう!と感激したのをおぼえている。というか、名刺を出されてはじめて、え!?中川正子さん??と驚いたのだけど、実は。
会ったのはmurmur magazineのパーティだったので、その空間じたいが特別だったし、ばんばんいいエネルギーが流れてて、初対面なのにみんなで館岡先生のワークショップをやったりして。あれはおかしかったな。

まさこちゃんはまずモデルさんですよね?て感じの大変美しい容姿なのだけど、いつも明るくエネルギッシュで、まっすぐで、愛するものを大切にしている、とっても素敵なひとで、会うたびにいつも「まさこちゃん、好きだな〜!」て気持ちでいっぱいになります。

こんなことを言ったら失礼かもしれないのだけど、アウトプットされたものだけをポンと見て、「まさこちゃんの写真、いいよね~」みたいには、私は絶対にならないと思う。まさこちゃんがどんなひとで、どういう気持ちで日々いろいろなものに対峙して、どんな気持ちでシャッターを押しているか、そういうところもひっくるめて好きなのだよね。正直、写真じゃなかったとしても、私は彼女の表現を好きになっただろうな、というか。なんとなくそんな風にずっと思っていた。
今回の「新世界」、会場に入るとまずまさこちゃんの言葉がある。それを見て、ああ、やっぱり私が考えていたことは、間違いじゃなかったんだな、と思った(これはネット上にもあがっている文章だと思うけど、ぜひ会場で読んでほしい)。私は彼女じたいが好きなんだなって。

しかしその30秒後には、私は「写真というものでしかありえない中川正子」を目の当たりにすることになる。写真じゃなかったとしても…なんて考えていた自分を恥ずかしく思ったし、ほんとに、命がけでシャッターを押しているまさこちゃんがばしばしと伝わってきた。
常々、まさこちゃんが命がけということは感じていたのだけど、それはサイくん(今回の主役でもある、まさこちゃんの息子)や旦那さんという「守るべきもの」に対する、母親とか女性としてのまさこちゃんによるものというイメージを持っていた。必死で、覚悟をもって、人生をサヴァイヴしているというか。もちろん愛をもってして、なのだけど、強くないとできない、少し刹那的な…そういった感じの。

だけど、ぜんぜんそうではなかった。彼女の写真は…なんというか、世の中はすべて愛おしいものだということを語っていた。彼女の写真は(本来写真とはそういったものだけど)二度と訪れない一瞬をとらえるもので、それはほんとうにほんとうにその一瞬にしかありえない風景なのだけど、だからこそ愛おしい、とかそういうことではなく、変化していくことそれじたいに対する愛おしさ、がそこには込められていた。それはサイくんの写真であっても、花の写真であっても同じ。その瞬間を越えたら、それはもうそこにはない、それは儚いことでもなんでもなくて、それこそが生きているということであって、でもだからこそかけがえがなくて美しいのだ、という感じ。

もう時間がない、だから気づいて、とまさこちゃん(の写真)は言っている。目の前のものをめいっぱい愛することしかない、もう、世界は新しくなっているんだよと。
特に私は、咲き誇ったあとの花の写真や、水に自転車が沈んでいる写真が素晴らしいと思った。結局、人間は自然の一部だし、生きていること、変化すること、故意に飾ることや醜いとされていることまでも…なんでもかんでも美しいんだよね、というか。
すべてを受け入れて愛していると言えるひとは、実際にはどれだけいるのだろうか。でも、確実にいるんだよね。そういうことに感動してしかたがなかった。

311以降、なにもかもがかわってしまった、というひともいれば、結局のところなにもかわっていない、というひともいる。さらには、そんなこと考えたこともないよ、というひともいるかもしれない。別にそれは、どうだっていい。だけど私は「なにもかもがかわってしまった」と実感しているひとりだし、私の中の何かがすっかり違うものになってしまった感覚がある。それは絶望や嘆き、諦め、恐怖、そういったものではなく、かといってポジティヴという言葉ではどこかしらじらしい、そんな何かなのだけど。

まさこちゃんの写真を見て思った。
それは光なんだなって。

ぜひ、見に行ってください。21日まで!

中川正子 写真展『新世界』

2012
113日(金)— 121日(土)12:00-20:00
13
日のみ18時まで。

会場:valveat81
   107-0062港区南青山4-21-26 2F
   TEL 03-6406-0252



Tuesday, January 3, 2012

Live Flesh, NEW YEAR 2012



決して忘れてはならない2011年をこえて
まったく新しいことが求められる2012年
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 AYANA


Friday, December 30, 2011

2012年へ

ぜんっぜん書いてないじゃん!このブログ!という感じですが、
2012年はもう少しアレしたいと思います。ほんとに。

で、最近関わらせてもらった諸々については、年度末にまとめてご紹介したいと思っておりますが、
こんなブログをはじめております。

A THOUSAND LEAVES beautiful reasons why we love organic cosmetics

正直、個人的にはもうあたらしい年が始まっちゃってるような感覚なのですが、
みなさまよいお年をお迎えください。

愛を込めて。

あこがれのチャッキーさんがお正月アイコンつくってくれました。ムフ。

Monday, December 26, 2011

016. 12月のカーテンコール


今年のクリスマスは、とても楽しみにしていたharuka nakamuraのライヴだった。
とにかく今年はいろいろあったから(今年いろいろなかったひとなど、誰もいないだろう)、はるかくんのライヴでも行かなければ次に進めないというか。

震災後、はるかくんとお蕎麦を食べながら(思えばこのひととはいつも蕎麦を食べているような気がする)、私たちにできることってなんなのかね、みたいな話になったのをよく憶えている。

結論は、私たちにできることをする、だった。

はるかくんは、私から見ると、音楽を奏でるためにうまれてきたひとのひとりで、音楽を通してできることをするというのはとても理にかなっているように感じる。実際はるかくんの音楽から希望をもらったり、勇気をもらったりしているひとは沢山いるだろう(それは石川さゆりだって同じことなのだけど)。
震災前と震災後で、わかりやすく生きかたや表現方法などのアプローチががらっと変わったひとというのも多いと思う。それはそれで、尊敬に値することも。でも、そういうことではなくて……というのが私たちの共通の見解だった。
もちろん、震災前に戻ることなどできない。
でもぐるっと一周考えて、目の前にあることをやるというのは、ただ生きるとか、つらいことから目を背けるとか、自分さえよければそれでいいとかいうことではない。むしろ真逆で、その覚悟をもってやるということだ。

私は私で、その後仕事をやめた。で、私なりに「震災後」と向き合って日々過ごしている。まぁ、私の話はどーでもいいですね。

はるかくんは美しいひとだ。美しいものが好きなひとだし、スタイルを持っていてとても丁寧。そして、揺るぎがない。その強靭さを保つための並大抵ではない努力があるだろうし(あるいは、本人にとってそれは努力ではないのかもしれないけれども)、アスリート並みの日々の基礎練が必要とされる。わかりやすい運動メニューとは違った精神の基礎練だ。それを彼がどのように行っているかは隅々までは知らない。けれども、いつも私は、自分の内側をととのえること、自分から出るもの(言葉ひとつとっても)に細心の注意を払っていること、そういうものをはるかくんから痛いほど感じる。

だからこそ、そういった姿勢や彼の表現に拠り所を求めるひとがたくさんいる。

そんなわけで、私にとって今年の年末にはるかくんのライヴをみることは(とってもくだらないことも含めて)いろいろあったことへの浄化や救いであり、同志はがんばってるかねという戦友のような心持ちでもあり、単純にはるかくんのいちファンとしての楽しいイベントでもあったわけです。





JanisからAspidistrafly、CANTUS、そしてはるかくんの順番で、どれもとても素晴らしかったのだけど、私はとにかくAspidistraflyのAprilにやられてしまった。エフェクター切らずにしゃべるMCも含めてすばらしかった。こんなに細くてかわいらしい女の子のどこから、こんな表現が出てくるんだろう? と驚きっぱなし。彼女はシンガポールでKITCHEN. LABELをやっている張本人。あらゆることのセンスに一貫性があって、そのスタンスや美しさ、そして何よりも丁寧さは、はるかくんのそれと重なりまくるのですが(それはサイトを見ると明らかだと思います)、なんか本人を目の前にして、すべてに納得がいったというか。一本の糸で繋がった感じ。

「はるかくんとその愉快な仲間たち」という感覚で挑んだ12月のカーテンコール、だったけど、そこはKITCHENの空間だった。KITCHENは、まるで日本庭園や懐石料理みたいに、異素材がぴったりとはまったジグソーパズルみたいに、過不足なく、一枚の絵として、物語としてそこにあった。

私はあんまり美しすぎるのは苦手なところがあって(グランジだから)、KITCHENもどっぷり浸かることはないだろうというか、すごいロマンチックだと思っていて、アンティーク調なガーリーも苦手だし、そんなものかなって先入観を持っていたけど、本当にごめんなさい!て感じ。
私はいちばん好きなミュージシャンてTara Jane O'Neilなんだけど、その先(というかオリジン)にはJudee SillやJoni Mitchellの存在があるわけで、そういう自分のルーツみたいなのともシンクロしたし、丁寧であることに対するリスペクトというか、あーこのひとがやってるのか、KITCHENを…。とすっと腑に落ちました。


はるかくんのライヴは、自分が自分がって出る感じではなく、みんなに感謝を、という調和的な内容だった。
ピアノの一音と全世界の空気が等価というか、ね。そこで演奏しているはるかくんと、それを聴いているみんなが等価だった。早稲田スコットホールの内側と外側が等価だった。日本と世界が等価だった、という感じ。
ホスピタリティとはまたちょっと違うのだけど、これが僕なりの答えだし、それは愛だと思います、というのが聞こえる感じがした。

KITCHENの音をこの空間で、クリスマスに楽しめるというのはそれだけで贅沢な感じのするものだけど、あまりにもいろいろなものが等価すぎて、私は何よりもそこに感動しました。

それからJanisとはるかくんの違いというか、同じピアノでもぜんぜん違うんだなーとアホみたいなことを今更ながらしみじみ考えてしまった。女は強し、です。(私は 'SOLITUDE' が大好き)

ほんとに。
いろいろありましたね。今年は。
そのひとの内側のものが露見しまくった1年だったな、と思う。みんなそれぞれに自分なりの答えをもって、来年に向かうのだろうな。
まぁほんとにいろんなことがあったけど、感謝しか出てこない。来年はもっと具体的に、今年露見したいろいろなものを活かしてアウトプットしていきたいなと思います。

素敵な夜をほんとうにありがとう。はるかくん、いつもありがとう。

Saturday, October 22, 2011

015. VERSACE for H&M

先日ちょっと通りかかったので渋谷のH&Mに入りました。
すっごく楽しかった。オーガニックコットンの下着ももちろんチェックしつつ、色々なものを見ました。で、改めて考えたのだけど、H&Mにしかないワクワク感(死語?)ってあるなと。
デザイナーとのコラボもはじめたのはH&Mだったように思う。そのセンスとか、素材の安っぽさとかも含めて、とってもいい感じなんですよね。たとえば+Jなんかはもうすごく安定感あるし、ここまでのクオリティが出せるんだ!っていう驚きがあったりするんだけど(ファクトリーブランドやスポーツブランドがやるデザイナーとのコラボもしかり)、H&Mは、そーゆー驚きが全然ない。潔いダメっぽさがある。
日本人、これ無理だろ、みたいなアイテムも普通にある(けど、それを可愛く着てる子が店内に居たりする、アメアパ的衝撃も体験できる。日本のブランドにはそういうことって絶対にない)。
なんというか、儚いガーリー感みたいなのってありますよね。「ひなぎく」とか「blue」でもいいんだけど、あと「The Virgin Suicides」でもいいんだけど、絶対に終わりがあるっていうか、賞味期限がある。花でもいいです。1週間と持たない。枯れてしまう。でも、だからこそ、というか。
そういう感じがH&Mにはあるなって思います。
刹那的なワクワク感というのかなー。

そんなH&Mが次に選んだコラボ相手がVERSACEってことで、結構びっくりしたんだけど、これめちゃくちゃ格好良くない?








うおーーーー。超素敵なんですけど!
イメージヴィジュアルも、往年のAvedonやMeiselによるVERSACE広告の模倣満載で、さすがのMert&Marcusによるもの(このひとたちの「コピー」ぶりは素晴らしい、なんというか、Meiselがカヴァーバンドなら、Mert&Marcusはコピーバンドって感じがする。でもMert&Marcusにしか作れない、ってなるからスゴイ)。
VERSACE for H&MはVERSACEのコピーだもんね、ということでしょうか?ちなみにスタイリストはJoe Mckenna。
なんか、いわゆるファストファッションで、力の抜け具合とセンス、本気度とウィット、そういうバランスが最高なのって、やはりフランスだからなのかなぁ。ファストファッションというのはもう死語かもしれないけど、安くあのデザイナーの服が買える!みたいなのの先を行っている感じがします。

個人的にはこの辺着てみたい。




しかしこのふたりのモデル(AbbeyとLindsey)、今ばく進中ですね。特にLindseyはTerry Richardsonとの組み合わせがすごく目立つ!あと、上3枚のキャンペーンイメージの3番目、Sashaみたいです。見えねー。

Tuesday, October 18, 2011

014.

ひとの役にたちたいということと

だれかに必要とされたいということは

同じようで全然ちがう


Thursday, September 29, 2011

013. 踊り狂いて死にゆかん


角度を変えれば美女もこうなるね


さっき、シャワーをあびながらじぶんの顔を触っていてふと思った。
この顔は借り物だと。

私たちが持つからだ(物質部分)は、
ちょうど庭で育てている植物のようなものなのではないだろうか?

せっせと水をやって、話しかけて、慈しみながら育てるような。
まぁ子どもでもいいんですが、自分が出産経験ないのと、子どもっていうとまた所有の問題とか人によって色々そうなので面倒だからここでは植物としておく。

自分の顔が美しくないとか、誰々のようになりたい(スタイルもしかり)といった欲求が、そもそも「そーいうことじゃないんだよね」って話になる。

でも、そういうことなのではないのかな?

私は幼少の頃、ぬり絵が大好きだったのだけれども、ぬり絵って、絵に色を塗るんですよね。
当たり前すぎることだけど。
それって、絵はもう決められているってことなんですよ。そこに色を乗せていく。
でも、どの色で塗るかは完全に自由。色鉛筆でもうひとつ手を足したっていい(やりたければ)。すべて真っ黒にして、もとの絵を見えなくしてしまうこともできる。
でもその下にあるもともとの絵がそこにあるという事実は消えない。

わたしたちの持って生まれた「ガワ」もそんなようなものじゃないのか。

植物も一緒。肥料を与えたり、鉢を変えたりして、どれだけおおきく育てるか、葉っぱは切り落とすのか、日にはあてるのか、そういうことは完全に育てる側の自由。
でも
オリーブの木がバラの花を咲かせることはない。

水をやる側、色を塗る側が本当の私なのであって、対象であるオリーブの木や、ぬり絵や、顔っていうのはただそこにあるだけなんだよね。

だから何なんだって話なんですけど、うちのオリーブの木、ほんとにブサイクでさ〜、とは言わないわな。育て方に責任あるし、そもそも育てるって決めたのは誰?って話で。
そもそも、そこまで執着しないだろうというか、自分とは別という切り離しがある。ぬり絵なんて、もっとそうですよね。

もっと自分から切り離して、自由にしていいのだろうな、と思う。

ま、こんなこと言ってないで原発のこととか考えろよって感じなのですが、私なりに考えております。オワリ。