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Friday, December 30, 2011

2012年へ

ぜんっぜん書いてないじゃん!このブログ!という感じですが、
2012年はもう少しアレしたいと思います。ほんとに。

で、最近関わらせてもらった諸々については、年度末にまとめてご紹介したいと思っておりますが、
こんなブログをはじめております。

A THOUSAND LEAVES beautiful reasons why we love organic cosmetics

正直、個人的にはもうあたらしい年が始まっちゃってるような感覚なのですが、
みなさまよいお年をお迎えください。

愛を込めて。

あこがれのチャッキーさんがお正月アイコンつくってくれました。ムフ。

Monday, December 26, 2011

016. 12月のカーテンコール


今年のクリスマスは、とても楽しみにしていたharuka nakamuraのライヴだった。
とにかく今年はいろいろあったから(今年いろいろなかったひとなど、誰もいないだろう)、はるかくんのライヴでも行かなければ次に進めないというか。

震災後、はるかくんとお蕎麦を食べながら(思えばこのひととはいつも蕎麦を食べているような気がする)、私たちにできることってなんなのかね、みたいな話になったのをよく憶えている。

結論は、私たちにできることをする、だった。

はるかくんは、私から見ると、音楽を奏でるためにうまれてきたひとのひとりで、音楽を通してできることをするというのはとても理にかなっているように感じる。実際はるかくんの音楽から希望をもらったり、勇気をもらったりしているひとは沢山いるだろう(それは石川さゆりだって同じことなのだけど)。
震災前と震災後で、わかりやすく生きかたや表現方法などのアプローチががらっと変わったひとというのも多いと思う。それはそれで、尊敬に値することも。でも、そういうことではなくて……というのが私たちの共通の見解だった。
もちろん、震災前に戻ることなどできない。
でもぐるっと一周考えて、目の前にあることをやるというのは、ただ生きるとか、つらいことから目を背けるとか、自分さえよければそれでいいとかいうことではない。むしろ真逆で、その覚悟をもってやるということだ。

私は私で、その後仕事をやめた。で、私なりに「震災後」と向き合って日々過ごしている。まぁ、私の話はどーでもいいですね。

はるかくんは美しいひとだ。美しいものが好きなひとだし、スタイルを持っていてとても丁寧。そして、揺るぎがない。その強靭さを保つための並大抵ではない努力があるだろうし(あるいは、本人にとってそれは努力ではないのかもしれないけれども)、アスリート並みの日々の基礎練が必要とされる。わかりやすい運動メニューとは違った精神の基礎練だ。それを彼がどのように行っているかは隅々までは知らない。けれども、いつも私は、自分の内側をととのえること、自分から出るもの(言葉ひとつとっても)に細心の注意を払っていること、そういうものをはるかくんから痛いほど感じる。

だからこそ、そういった姿勢や彼の表現に拠り所を求めるひとがたくさんいる。

そんなわけで、私にとって今年の年末にはるかくんのライヴをみることは(とってもくだらないことも含めて)いろいろあったことへの浄化や救いであり、同志はがんばってるかねという戦友のような心持ちでもあり、単純にはるかくんのいちファンとしての楽しいイベントでもあったわけです。





JanisからAspidistrafly、CANTUS、そしてはるかくんの順番で、どれもとても素晴らしかったのだけど、私はとにかくAspidistraflyのAprilにやられてしまった。エフェクター切らずにしゃべるMCも含めてすばらしかった。こんなに細くてかわいらしい女の子のどこから、こんな表現が出てくるんだろう? と驚きっぱなし。彼女はシンガポールでKITCHEN. LABELをやっている張本人。あらゆることのセンスに一貫性があって、そのスタンスや美しさ、そして何よりも丁寧さは、はるかくんのそれと重なりまくるのですが(それはサイトを見ると明らかだと思います)、なんか本人を目の前にして、すべてに納得がいったというか。一本の糸で繋がった感じ。

「はるかくんとその愉快な仲間たち」という感覚で挑んだ12月のカーテンコール、だったけど、そこはKITCHENの空間だった。KITCHENは、まるで日本庭園や懐石料理みたいに、異素材がぴったりとはまったジグソーパズルみたいに、過不足なく、一枚の絵として、物語としてそこにあった。

私はあんまり美しすぎるのは苦手なところがあって(グランジだから)、KITCHENもどっぷり浸かることはないだろうというか、すごいロマンチックだと思っていて、アンティーク調なガーリーも苦手だし、そんなものかなって先入観を持っていたけど、本当にごめんなさい!て感じ。
私はいちばん好きなミュージシャンてTara Jane O'Neilなんだけど、その先(というかオリジン)にはJudee SillやJoni Mitchellの存在があるわけで、そういう自分のルーツみたいなのともシンクロしたし、丁寧であることに対するリスペクトというか、あーこのひとがやってるのか、KITCHENを…。とすっと腑に落ちました。


はるかくんのライヴは、自分が自分がって出る感じではなく、みんなに感謝を、という調和的な内容だった。
ピアノの一音と全世界の空気が等価というか、ね。そこで演奏しているはるかくんと、それを聴いているみんなが等価だった。早稲田スコットホールの内側と外側が等価だった。日本と世界が等価だった、という感じ。
ホスピタリティとはまたちょっと違うのだけど、これが僕なりの答えだし、それは愛だと思います、というのが聞こえる感じがした。

KITCHENの音をこの空間で、クリスマスに楽しめるというのはそれだけで贅沢な感じのするものだけど、あまりにもいろいろなものが等価すぎて、私は何よりもそこに感動しました。

それからJanisとはるかくんの違いというか、同じピアノでもぜんぜん違うんだなーとアホみたいなことを今更ながらしみじみ考えてしまった。女は強し、です。(私は 'SOLITUDE' が大好き)

ほんとに。
いろいろありましたね。今年は。
そのひとの内側のものが露見しまくった1年だったな、と思う。みんなそれぞれに自分なりの答えをもって、来年に向かうのだろうな。
まぁほんとにいろんなことがあったけど、感謝しか出てこない。来年はもっと具体的に、今年露見したいろいろなものを活かしてアウトプットしていきたいなと思います。

素敵な夜をほんとうにありがとう。はるかくん、いつもありがとう。

Saturday, October 22, 2011

015. VERSACE for H&M

先日ちょっと通りかかったので渋谷のH&Mに入りました。
すっごく楽しかった。オーガニックコットンの下着ももちろんチェックしつつ、色々なものを見ました。で、改めて考えたのだけど、H&Mにしかないワクワク感(死語?)ってあるなと。
デザイナーとのコラボもはじめたのはH&Mだったように思う。そのセンスとか、素材の安っぽさとかも含めて、とってもいい感じなんですよね。たとえば+Jなんかはもうすごく安定感あるし、ここまでのクオリティが出せるんだ!っていう驚きがあったりするんだけど(ファクトリーブランドやスポーツブランドがやるデザイナーとのコラボもしかり)、H&Mは、そーゆー驚きが全然ない。潔いダメっぽさがある。
日本人、これ無理だろ、みたいなアイテムも普通にある(けど、それを可愛く着てる子が店内に居たりする、アメアパ的衝撃も体験できる。日本のブランドにはそういうことって絶対にない)。
なんというか、儚いガーリー感みたいなのってありますよね。「ひなぎく」とか「blue」でもいいんだけど、あと「The Virgin Suicides」でもいいんだけど、絶対に終わりがあるっていうか、賞味期限がある。花でもいいです。1週間と持たない。枯れてしまう。でも、だからこそ、というか。
そういう感じがH&Mにはあるなって思います。
刹那的なワクワク感というのかなー。

そんなH&Mが次に選んだコラボ相手がVERSACEってことで、結構びっくりしたんだけど、これめちゃくちゃ格好良くない?








うおーーーー。超素敵なんですけど!
イメージヴィジュアルも、往年のAvedonやMeiselによるVERSACE広告の模倣満載で、さすがのMert&Marcusによるもの(このひとたちの「コピー」ぶりは素晴らしい、なんというか、Meiselがカヴァーバンドなら、Mert&Marcusはコピーバンドって感じがする。でもMert&Marcusにしか作れない、ってなるからスゴイ)。
VERSACE for H&MはVERSACEのコピーだもんね、ということでしょうか?ちなみにスタイリストはJoe Mckenna。
なんか、いわゆるファストファッションで、力の抜け具合とセンス、本気度とウィット、そういうバランスが最高なのって、やはりフランスだからなのかなぁ。ファストファッションというのはもう死語かもしれないけど、安くあのデザイナーの服が買える!みたいなのの先を行っている感じがします。

個人的にはこの辺着てみたい。




しかしこのふたりのモデル(AbbeyとLindsey)、今ばく進中ですね。特にLindseyはTerry Richardsonとの組み合わせがすごく目立つ!あと、上3枚のキャンペーンイメージの3番目、Sashaみたいです。見えねー。

Tuesday, October 18, 2011

014.

ひとの役にたちたいということと

だれかに必要とされたいということは

同じようで全然ちがう


Thursday, September 29, 2011

013. 踊り狂いて死にゆかん


角度を変えれば美女もこうなるね


さっき、シャワーをあびながらじぶんの顔を触っていてふと思った。
この顔は借り物だと。

私たちが持つからだ(物質部分)は、
ちょうど庭で育てている植物のようなものなのではないだろうか?

せっせと水をやって、話しかけて、慈しみながら育てるような。
まぁ子どもでもいいんですが、自分が出産経験ないのと、子どもっていうとまた所有の問題とか人によって色々そうなので面倒だからここでは植物としておく。

自分の顔が美しくないとか、誰々のようになりたい(スタイルもしかり)といった欲求が、そもそも「そーいうことじゃないんだよね」って話になる。

でも、そういうことなのではないのかな?

私は幼少の頃、ぬり絵が大好きだったのだけれども、ぬり絵って、絵に色を塗るんですよね。
当たり前すぎることだけど。
それって、絵はもう決められているってことなんですよ。そこに色を乗せていく。
でも、どの色で塗るかは完全に自由。色鉛筆でもうひとつ手を足したっていい(やりたければ)。すべて真っ黒にして、もとの絵を見えなくしてしまうこともできる。
でもその下にあるもともとの絵がそこにあるという事実は消えない。

わたしたちの持って生まれた「ガワ」もそんなようなものじゃないのか。

植物も一緒。肥料を与えたり、鉢を変えたりして、どれだけおおきく育てるか、葉っぱは切り落とすのか、日にはあてるのか、そういうことは完全に育てる側の自由。
でも
オリーブの木がバラの花を咲かせることはない。

水をやる側、色を塗る側が本当の私なのであって、対象であるオリーブの木や、ぬり絵や、顔っていうのはただそこにあるだけなんだよね。

だから何なんだって話なんですけど、うちのオリーブの木、ほんとにブサイクでさ〜、とは言わないわな。育て方に責任あるし、そもそも育てるって決めたのは誰?って話で。
そもそも、そこまで執着しないだろうというか、自分とは別という切り離しがある。ぬり絵なんて、もっとそうですよね。

もっと自分から切り離して、自由にしていいのだろうな、と思う。

ま、こんなこと言ってないで原発のこととか考えろよって感じなのですが、私なりに考えております。オワリ。

Wednesday, September 21, 2011

012. スリランカで




信頼するものがある
ということは
そのひとの人生をとても左右する

ほんとうに自由なひとは
自由についてなんて考えない

だれのものでもないものを
みんなでわけあって
おいしいねと笑って
すべてに感謝する

わかっている ということは
ひけらかすものではなくて、あたりまえのこと

目に見えないものと
目に見えるもののあいだに
どれほどの違いがあるというのか

Friday, July 29, 2011

011. かっこいい人。

林文浩さんと原神玲さんが亡くなった。

日々色々な人がこの世に生を受け、この世から去っていくわけなのだけど、
このふたりと、アレクサンダー・マックイーンに関しては、とても自分のなかで動揺があり、受け入れられないものがある。

愛すべきくだらないことをして、ひとを(そして自分を)好きになったり嫌いになったりして、傷つけたりゆるしたりして、もうそういう人生というものが全体的に奇跡的に成立しているし、大切なひとは大切にしなければいけないなと思いました。明日どうなるかわからない。

ひとの死、ということについて考えるとき、私にとってとても大きな意味を持つのがなぜか深沢エリサさんとmariaさんというふたりの女性。長年一緒に暮らしていた祖父や、恩師である植村秀氏などよりもまず思い浮かぶのがそのふたり。どうしてなのかなと思うのだけど、前者の2人は私の中で「寿命を全うした人」だからかもしれない。
それは死因とかって問題ではもちろんなくて、うまく説明できないのだけど、どうしていなくなってしまったの?まだやってほしいことがたくさんあった。っていう無念の気持ちでいっぱいになってしまう大好きな人が、絶対的にこの世からいなくなってしまうというのはどうしようもなくかなしい。
そういうことの前では血とか関係性は私にとってあまり意味を持たないのかもしれない。

林さん、原神さんも(そしてマックイーンも)私にとってそういう人なのだと思う。

どんな亡くなりかたでももちろん寿命は全うしているのだよね。だから結局言えるのって「ありがとう」になってしまうし、死って当人よりも残された人にとっての課題というか、命題。死人に口なしとはよく言ったもので、それは今生の別れみたいなことではなく、普通の日常生活でも沢山あることだ。
死というよりも別れということがつらいのだと思う。きっと。でも、そんなの変だね。その後も繋がることなんて沢山あるし、だからやっぱり残された人がどうかということになるのかもしれない。

−−



で、林さんの話になるのだけど、私には「最も好きな雑誌はDUNE」という時代が間違いなくあった、たぶんMilk Fed.立ち上がりとかパルコのBaby Generation展とかBOSS HOG来日なんかの時代ではないかと思う、ので大学生のとき。当時は林さんより中島英樹さんがADだったので、そこに惹かれてたところもあり。DUNEによって色々なものが繋がったし、必ずヒステリックグラマーの広告写真のページが入ってて、これ撮ってる人は間違いないなと思ってた記憶。もちろんSofia CoppolaがRoyal TruxのJenniferを撮っていたりとか、Ellen Von Unwerthとか、Terry Richardsonは私ヒスの広告写真で初めて知ったと思う(当時Nikki Ubertiというモデルとつき合っていて、自分の彼女にハチャメチャなことさせて、というか一緒にやるんだけど、で、撮るっていう手法は衝撃受けました)。
じぶんの好きな人が出ていたら「あー私間違ってなかったんだ」と思ってたし、知らない人が出ていると「この人間違いないんだろうな」とか確認するみたいな、子どもっぽい見方もしていたと思う。今思えば完全に林さんの編集力、センスがいいということなんだけど、当時はそういうの全然わかってなかったですね。MarioとDavid SorrentiのすごさもDUNEに教わったし、ヒスの北島さんと田中宗一郎さんとの音楽対談なんかもあったり、とにかく信用している雑誌でした。
でも、載っているラインナップがファミリー感強い感じがしてだんだん買わなくなったのだよね。

このたび、4年ぶりに「Libertin/DUNE」としてリスタートを切り、THE LAST GALLERYも立ち上がり、だったのだけど、正直いつものDUNE節だなくらいにしか思っていなくて(だって表紙がソフィアで「SOMEWHERE/NEW YORK/TOKYO/RIO DE JANEIRO」って!)食指が動いてなかったのですが、林さんの訃報を聞いてものすごくショックで、ようやく見つけて購入しました。

結論から言うと林さんなんてかっこいいんだろう、ってことですね。

いい意味でまったく変わってなくて、今は私が当時より変わっているから、どうしてこの紙で、この構成で、この文字量で、っていうのが少なからず感じられて感動するというか。今の日本でこれをやることの意味とか。どうしようもなくやらなければいけない感じとか。そういうのが全部出ていて、そうだよねって。昔の私は見たままの情報しか得てなかったんだなって。反省しきり。

多分DUNEはDUTCHとかRaygunみたいな伝説の雑誌になるんではないかな、なんてバカみたいなことを思いつつ。色々なものをくれてほんとうにありがとうございます、林さん。

「SOMEWHERE」をもう一回絶対に観ること。

Sunday, June 12, 2011

010. ムッシュへのラブレター

アイデンティティ定まらぬまま、かなりお久しぶりです。お元気でしょうか?

この半年くらい、公私ともに、というか、もはや公私って何なのという感じですが、まぁ色々ありまして、まだ色々あり続けているのですが、そんな中でも最近は少し劇場で映画を観る機会に恵まれています。『ミツバチの羽音と地球の回転』を皮切りに、『ハーブ&ドロシー』『六ヶ所村ラプソディー』『ブラックスワン』『キッズ・オールライト』『100000年後の安全』『イヴ・サンローラン』……。いずれも311以降で、もちろん観かたによるのでしょうが、やっぱり自分の人生とのリンクを意識してしまう癖があって、そうなったときに、天命とは何なのだろうと考えずにはいられないというか。


それぞれの映画に対して思い入れがあるのですが、今日は『イヴ・サンローラン』について。





私はイヴが「デザイナーとして」大変好き(サファリ・ルックとモンドリアンの現物を見たときの衝撃は忘れられない!)なので、彼のアーカイヴを見れること、パーソナリティを知れること、いずれも興奮できてこの映画はとても楽しかった。とはいえ、どちらかというと俯瞰のイヴの伝記というよりは、ピエール・ベルジェがいかにイヴを愛し、支え、成功させたかという個人的な想いの入りまくった映画でした。終始。潔いくらいに。とはいえ-----というのか、ベルジェなくしてイヴの成功はなかった、といういいかたもできるのだけど、今の私には、やっぱり天命を全うする場合にはそれ相応の支援者が現れるのだな、というふうに見てとれた。もちろんベルジェにとってはイヴが支援者なわけで、なんだかとても素晴らしいな、と感動。

イヴは私が思っていた100万倍くらいセンシティヴで、とても弱い人だった。ブラック・スワンじゃないけれど、常に狂気と隣り合わせどころじゃなく、狂気のただなかというか、狂気と一緒に暮らしているというか、それはそれは想像を絶するものがあったのだろうなと思う。お決まりのドラッグにお世話になりつつ、それでも生涯にわたりあのように素晴らしいクリエイションを残してくれたことにはただ感嘆というほかない。知らない素晴らしい作品があふれるほどあった。本当に天才。





イヴが居なければそれこそトム・フォードも居なかっただろうし、21でDiorのデザイナーというのもすごい、マックイーンがGIVENCHYのデザイナーになったときや、ステラがChloeのデザイナーになったとき「こんなに若いのに!?」とか思っていたけどそれの比じゃないというか、もうとにかくすごい!ブラボー!って感じで。ボキャブラリー貧困ですみません。

個人的には若かりし頃のルル・ド・ラ・ファレーズが見れたことが嬉しかったのですが、ウォーホルやストーンズのメンバー、もちろんベティ・カトルーにドヌーヴ、歴代のスーパーモデルなどが登場するのと、マラケシュのマジョレル庭園も出てきます。良い時代だったのだろうな、って思う。

90’s以降のファッション業界の魑魅魍魎(とは言ってなかったけど)を嘆くシーンもあって、オートクチュールが命のメゾンには厳しい時代だろうし、イヴが今の世の中を見たらいったいなんと言うのだろう。というのは思う。カリ・ユガですからね。イヴが生きてた時代も別にカリ・ユガか。

という訳で色々言われている2012年を目前に、あまり時間がない、というのは最近すごく思っていて、もちろん「唯一、死は保障されている」わけですし、私はmariaのときに、どうしてあんなに素敵なひとがいなくなってしまうのに私は生きてるんだろう?と心から思ったし(恨んだと言ってもいいかもしれない)、それでも生きているならそれなりの何かがあるのかなというのはあるのですけど。はい。
ただもう311以前には戻れない、当たり前だけど。
あまり心配はしていないのだけど、加速することは必要だなと思っています。




YSL×NEWTONのマスターピース。
いつか何かを成し遂げたら、YSLのスモーキングで一杯やりたいです。がんばる。
ただ私はピラーティはそんなに好みじゃないのだけど。