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Thursday, September 29, 2011

013. 踊り狂いて死にゆかん


角度を変えれば美女もこうなるね


さっき、シャワーをあびながらじぶんの顔を触っていてふと思った。
この顔は借り物だと。

私たちが持つからだ(物質部分)は、
ちょうど庭で育てている植物のようなものなのではないだろうか?

せっせと水をやって、話しかけて、慈しみながら育てるような。
まぁ子どもでもいいんですが、自分が出産経験ないのと、子どもっていうとまた所有の問題とか人によって色々そうなので面倒だからここでは植物としておく。

自分の顔が美しくないとか、誰々のようになりたい(スタイルもしかり)といった欲求が、そもそも「そーいうことじゃないんだよね」って話になる。

でも、そういうことなのではないのかな?

私は幼少の頃、ぬり絵が大好きだったのだけれども、ぬり絵って、絵に色を塗るんですよね。
当たり前すぎることだけど。
それって、絵はもう決められているってことなんですよ。そこに色を乗せていく。
でも、どの色で塗るかは完全に自由。色鉛筆でもうひとつ手を足したっていい(やりたければ)。すべて真っ黒にして、もとの絵を見えなくしてしまうこともできる。
でもその下にあるもともとの絵がそこにあるという事実は消えない。

わたしたちの持って生まれた「ガワ」もそんなようなものじゃないのか。

植物も一緒。肥料を与えたり、鉢を変えたりして、どれだけおおきく育てるか、葉っぱは切り落とすのか、日にはあてるのか、そういうことは完全に育てる側の自由。
でも
オリーブの木がバラの花を咲かせることはない。

水をやる側、色を塗る側が本当の私なのであって、対象であるオリーブの木や、ぬり絵や、顔っていうのはただそこにあるだけなんだよね。

だから何なんだって話なんですけど、うちのオリーブの木、ほんとにブサイクでさ〜、とは言わないわな。育て方に責任あるし、そもそも育てるって決めたのは誰?って話で。
そもそも、そこまで執着しないだろうというか、自分とは別という切り離しがある。ぬり絵なんて、もっとそうですよね。

もっと自分から切り離して、自由にしていいのだろうな、と思う。

ま、こんなこと言ってないで原発のこととか考えろよって感じなのですが、私なりに考えております。オワリ。

Wednesday, September 21, 2011

012. スリランカで




信頼するものがある
ということは
そのひとの人生をとても左右する

ほんとうに自由なひとは
自由についてなんて考えない

だれのものでもないものを
みんなでわけあって
おいしいねと笑って
すべてに感謝する

わかっている ということは
ひけらかすものではなくて、あたりまえのこと

目に見えないものと
目に見えるもののあいだに
どれほどの違いがあるというのか