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Monday, August 27, 2012

ブログ移動のおしらせ!

ブログ、移動しました。

http://rasayanamantra.blogspot.jp/

Thursday, July 19, 2012

019. 映画「ヘルタースケルター」、そして2012年の狂気とは



原作の漫画が好きというのは言うまでもなく、世代ですから、という感じなのだけど、蜷川実花さんが監督というニュースのあとに、岡崎京子さんの「原作に忠実に行うのも、演者の体内を通してどのように変貌するのかも、受け入れる準備は出来ている」というコメントを読んだので、そこにリスペクトが行ってしまっていたところがあります。
なので蜷川節とかアートワークがセンスがディレクションが世界観が、そういった話はあまり問題ではないかなーと。

というのをふまえて、さて、観ての感想です。


まず、岡崎さんは、ひとりの女性の狂気を描く人だと思っているし、確か本人もそう言っていたハズ。
でも、この映画に狂っているひとはひとりも出てきません。どうしてなのかな?と思うわけです。


細かくはいろいろあるのですが、大きくはふたつ。

ひとつは、このテーマが2012年に向いているものかどうかが少々疑問だということ。
美しさに執着し、全身整形してトップに立ついじらしい女の子のお話、なわけですが、はたしてこういう女の子が今メディアに登場したとして、全身整形なんだって!ありえない!!ってなるのでしょうか、というのが疑問。
全身整形なんてじゅうぶんあり得る2012年、なわけです。
全身整形そのものについては、原作の時代よりも今のほうがぜんぜんリアリティあるよなーとは思います。だからこそ、クリニックの存在や全身整形に踏み込む覚悟みたいなものが「とてつもないもの」にはなり得ない。そこに違和感がありました。技術的にも、精神的にも、もっと簡単に気軽にできるものなんでないのかなーと思ってしまう。だからどこかしらじらしい。原作を読んでいる(リアルタイムで)私はもう、初見で接することはできないわけで、今の若い子たちはこのテーマをどう見るのかな、と思ってしまいました。


もうひとつは、原作への忠実さ。
蜷川さんは、きっと、本当にこの原作が好きなんだろうなというのが痛いほどわかりました。ヴィジュアルや世界観などの「蜷川的なところ」を省いて見るならば、そこにはよくも悪くも原作がどん、と鎮座していました。
かなり忠実に台詞なども再現されている、のです。(ここ小出裕章さんテイストで発音)
で、それが結構無理あるんだなー。ということに気づいてしまった。私は岡崎さんの漫画のなかでも特に「ヘルタースケルター」は映画のような漫画だなと思っていて、それはややミニシアター的というか、ヌーヴェルバーグというか、まぁなんでもいいんですけど、コマ割りとか展開のしかたがすごく映画っぽくて、そこが好きだったんですね。
でも、やはり岡崎さんの漫画の台詞というのは「文字」なんだな、と思いました。映像ではない、生身の人間が話すものではないのだなと。結局「詩」なのかなと。
いちばんそれを感じたのが大森南朋なんですけど、彼の扮する検事はどちらかというと若き日のオザケンのようなーーなんかこうちょっと無機質で、結局、こんなキャラ実在しないよね的な男性なんですよね。そういう人は「ようこそ、タイガー・リリィ」とか「僕の子猫ちゃん」とか「ごめんねハニー」みたいなこと言っても普通なんですけど(この台詞が劇中にあるわけではないです、イメージね)、生身の人間が言うとやっぱりちょっと無理あるなぁというか。別に言ってもいいけど、お芝居になっちゃう。そこはリアリティ持たせるために工夫してもよかったのではないかなと。大森南朋は演じるの大変だっただろうな、と思いました。

唯一原作と大幅に違うところが寺島しのぶ扮するマネージャーのキャラで、この人すごく不思議でした。全然感情移入できないニュータイプ。漫画っぽいわけでもなく、生身っぽくもなく。いちばん人工的でリアリティのないキャラはこの人だったなのではないでしょうか(寺島さんの演技はお上手です)。

その割に、人間関係や感情は希薄に描かれていて。たとえば、原作では屋上でキンちゃんがりりこを説得する場面があるのですが、そこもうちょっとやってほしかったな、とか。場面は出てくるんだけど情的なものがあんまり出てこないんですよね。記号的なのは出てくるんですけど。セックス、暴力、ドラッグ、叫び、涙、そういったものをカタチとしては見せるけど……というか。音楽がこれ、映像がこれ、セットがこれ、衣装がこれ、そういったセンスはもう「受け入れる準備は出来ている」の言葉が印籠となって何を言うつもりもないんですが、PV的になってしまっているのは非常に残念で、そっちの方向で原作に忠実になられても困っちゃうなーという感じがありました。

最後のシーンもちゃんと描かれてるんですが、こーいった解釈ですか??? て感じで。これじゃアメリカ映画ではないの?岡崎さんのフレンチテイスト入れなくていいんですか?みたいなのは気になりました。


それから狂気のシーンはディズニーランドみたいで、やっぱりリンチの足下にも及ばないというか、日本のキッズ向けに作ったのかなぁ?ってなんかだんだん冒頭と矛盾したことを言いそうになってきたのでこの辺で。


それから、間違いなく沢尻エリカは命がけでこの映画に挑んだのだろーなーと思うし、実際すごくまじめな人なんでしょうね、この人。それが役にもぴったりだった。「持って生まれちゃった人」こずえ役、水原希子との対比はナイスキャスティングです。


DVDで観る価値はあまりない映画と、個人的には思います。ので、観たいかたはぜひ劇場で。


Tuesday, April 3, 2012

018. 陰謀説にも飽きましたね。

いろいろなところからいろいろな声が聞こえる。という感じの時代ですね。
こうすべきという正しい一本の道があったとしたら、みんなとっくにそっちに進んでいる。

なにかひとつのものに対して、盲目的になることが苦手。
客観的なものの見かたをするのは好みなんだけど、俯瞰は苦手。
家族とそれ以外のひとに線引きをすることが苦手。

わたしには、わたしの道しかない。
でも、わたしの道がある。


Monday, January 16, 2012

017. まさこちゃんの、わたしたちの、新世界






まさこちゃんの写真展が行われている。

その前から彼女のブログをちょこちょこ読んではいたものの、まさこちゃんと出会ったのは去年のこと。「写真家・中川正子の311以降」といった部分がすごく強いイメージだったので(詳しくは彼女のブログを読むとわかると思う)、実際会ってお話したときに、なんてきらきらした素敵なひとなんだろう!と感激したのをおぼえている。というか、名刺を出されてはじめて、え!?中川正子さん??と驚いたのだけど、実は。
会ったのはmurmur magazineのパーティだったので、その空間じたいが特別だったし、ばんばんいいエネルギーが流れてて、初対面なのにみんなで館岡先生のワークショップをやったりして。あれはおかしかったな。

まさこちゃんはまずモデルさんですよね?て感じの大変美しい容姿なのだけど、いつも明るくエネルギッシュで、まっすぐで、愛するものを大切にしている、とっても素敵なひとで、会うたびにいつも「まさこちゃん、好きだな〜!」て気持ちでいっぱいになります。

こんなことを言ったら失礼かもしれないのだけど、アウトプットされたものだけをポンと見て、「まさこちゃんの写真、いいよね~」みたいには、私は絶対にならないと思う。まさこちゃんがどんなひとで、どういう気持ちで日々いろいろなものに対峙して、どんな気持ちでシャッターを押しているか、そういうところもひっくるめて好きなのだよね。正直、写真じゃなかったとしても、私は彼女の表現を好きになっただろうな、というか。なんとなくそんな風にずっと思っていた。
今回の「新世界」、会場に入るとまずまさこちゃんの言葉がある。それを見て、ああ、やっぱり私が考えていたことは、間違いじゃなかったんだな、と思った(これはネット上にもあがっている文章だと思うけど、ぜひ会場で読んでほしい)。私は彼女じたいが好きなんだなって。

しかしその30秒後には、私は「写真というものでしかありえない中川正子」を目の当たりにすることになる。写真じゃなかったとしても…なんて考えていた自分を恥ずかしく思ったし、ほんとに、命がけでシャッターを押しているまさこちゃんがばしばしと伝わってきた。
常々、まさこちゃんが命がけということは感じていたのだけど、それはサイくん(今回の主役でもある、まさこちゃんの息子)や旦那さんという「守るべきもの」に対する、母親とか女性としてのまさこちゃんによるものというイメージを持っていた。必死で、覚悟をもって、人生をサヴァイヴしているというか。もちろん愛をもってして、なのだけど、強くないとできない、少し刹那的な…そういった感じの。

だけど、ぜんぜんそうではなかった。彼女の写真は…なんというか、世の中はすべて愛おしいものだということを語っていた。彼女の写真は(本来写真とはそういったものだけど)二度と訪れない一瞬をとらえるもので、それはほんとうにほんとうにその一瞬にしかありえない風景なのだけど、だからこそ愛おしい、とかそういうことではなく、変化していくことそれじたいに対する愛おしさ、がそこには込められていた。それはサイくんの写真であっても、花の写真であっても同じ。その瞬間を越えたら、それはもうそこにはない、それは儚いことでもなんでもなくて、それこそが生きているということであって、でもだからこそかけがえがなくて美しいのだ、という感じ。

もう時間がない、だから気づいて、とまさこちゃん(の写真)は言っている。目の前のものをめいっぱい愛することしかない、もう、世界は新しくなっているんだよと。
特に私は、咲き誇ったあとの花の写真や、水に自転車が沈んでいる写真が素晴らしいと思った。結局、人間は自然の一部だし、生きていること、変化すること、故意に飾ることや醜いとされていることまでも…なんでもかんでも美しいんだよね、というか。
すべてを受け入れて愛していると言えるひとは、実際にはどれだけいるのだろうか。でも、確実にいるんだよね。そういうことに感動してしかたがなかった。

311以降、なにもかもがかわってしまった、というひともいれば、結局のところなにもかわっていない、というひともいる。さらには、そんなこと考えたこともないよ、というひともいるかもしれない。別にそれは、どうだっていい。だけど私は「なにもかもがかわってしまった」と実感しているひとりだし、私の中の何かがすっかり違うものになってしまった感覚がある。それは絶望や嘆き、諦め、恐怖、そういったものではなく、かといってポジティヴという言葉ではどこかしらじらしい、そんな何かなのだけど。

まさこちゃんの写真を見て思った。
それは光なんだなって。

ぜひ、見に行ってください。21日まで!

中川正子 写真展『新世界』

2012
113日(金)— 121日(土)12:00-20:00
13
日のみ18時まで。

会場:valveat81
   107-0062港区南青山4-21-26 2F
   TEL 03-6406-0252



Tuesday, January 3, 2012

Live Flesh, NEW YEAR 2012



決して忘れてはならない2011年をこえて
まったく新しいことが求められる2012年
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 AYANA


Friday, December 30, 2011

2012年へ

ぜんっぜん書いてないじゃん!このブログ!という感じですが、
2012年はもう少しアレしたいと思います。ほんとに。

で、最近関わらせてもらった諸々については、年度末にまとめてご紹介したいと思っておりますが、
こんなブログをはじめております。

A THOUSAND LEAVES beautiful reasons why we love organic cosmetics

正直、個人的にはもうあたらしい年が始まっちゃってるような感覚なのですが、
みなさまよいお年をお迎えください。

愛を込めて。

あこがれのチャッキーさんがお正月アイコンつくってくれました。ムフ。

Monday, December 26, 2011

016. 12月のカーテンコール


今年のクリスマスは、とても楽しみにしていたharuka nakamuraのライヴだった。
とにかく今年はいろいろあったから(今年いろいろなかったひとなど、誰もいないだろう)、はるかくんのライヴでも行かなければ次に進めないというか。

震災後、はるかくんとお蕎麦を食べながら(思えばこのひととはいつも蕎麦を食べているような気がする)、私たちにできることってなんなのかね、みたいな話になったのをよく憶えている。

結論は、私たちにできることをする、だった。

はるかくんは、私から見ると、音楽を奏でるためにうまれてきたひとのひとりで、音楽を通してできることをするというのはとても理にかなっているように感じる。実際はるかくんの音楽から希望をもらったり、勇気をもらったりしているひとは沢山いるだろう(それは石川さゆりだって同じことなのだけど)。
震災前と震災後で、わかりやすく生きかたや表現方法などのアプローチががらっと変わったひとというのも多いと思う。それはそれで、尊敬に値することも。でも、そういうことではなくて……というのが私たちの共通の見解だった。
もちろん、震災前に戻ることなどできない。
でもぐるっと一周考えて、目の前にあることをやるというのは、ただ生きるとか、つらいことから目を背けるとか、自分さえよければそれでいいとかいうことではない。むしろ真逆で、その覚悟をもってやるということだ。

私は私で、その後仕事をやめた。で、私なりに「震災後」と向き合って日々過ごしている。まぁ、私の話はどーでもいいですね。

はるかくんは美しいひとだ。美しいものが好きなひとだし、スタイルを持っていてとても丁寧。そして、揺るぎがない。その強靭さを保つための並大抵ではない努力があるだろうし(あるいは、本人にとってそれは努力ではないのかもしれないけれども)、アスリート並みの日々の基礎練が必要とされる。わかりやすい運動メニューとは違った精神の基礎練だ。それを彼がどのように行っているかは隅々までは知らない。けれども、いつも私は、自分の内側をととのえること、自分から出るもの(言葉ひとつとっても)に細心の注意を払っていること、そういうものをはるかくんから痛いほど感じる。

だからこそ、そういった姿勢や彼の表現に拠り所を求めるひとがたくさんいる。

そんなわけで、私にとって今年の年末にはるかくんのライヴをみることは(とってもくだらないことも含めて)いろいろあったことへの浄化や救いであり、同志はがんばってるかねという戦友のような心持ちでもあり、単純にはるかくんのいちファンとしての楽しいイベントでもあったわけです。





JanisからAspidistrafly、CANTUS、そしてはるかくんの順番で、どれもとても素晴らしかったのだけど、私はとにかくAspidistraflyのAprilにやられてしまった。エフェクター切らずにしゃべるMCも含めてすばらしかった。こんなに細くてかわいらしい女の子のどこから、こんな表現が出てくるんだろう? と驚きっぱなし。彼女はシンガポールでKITCHEN. LABELをやっている張本人。あらゆることのセンスに一貫性があって、そのスタンスや美しさ、そして何よりも丁寧さは、はるかくんのそれと重なりまくるのですが(それはサイトを見ると明らかだと思います)、なんか本人を目の前にして、すべてに納得がいったというか。一本の糸で繋がった感じ。

「はるかくんとその愉快な仲間たち」という感覚で挑んだ12月のカーテンコール、だったけど、そこはKITCHENの空間だった。KITCHENは、まるで日本庭園や懐石料理みたいに、異素材がぴったりとはまったジグソーパズルみたいに、過不足なく、一枚の絵として、物語としてそこにあった。

私はあんまり美しすぎるのは苦手なところがあって(グランジだから)、KITCHENもどっぷり浸かることはないだろうというか、すごいロマンチックだと思っていて、アンティーク調なガーリーも苦手だし、そんなものかなって先入観を持っていたけど、本当にごめんなさい!て感じ。
私はいちばん好きなミュージシャンてTara Jane O'Neilなんだけど、その先(というかオリジン)にはJudee SillやJoni Mitchellの存在があるわけで、そういう自分のルーツみたいなのともシンクロしたし、丁寧であることに対するリスペクトというか、あーこのひとがやってるのか、KITCHENを…。とすっと腑に落ちました。


はるかくんのライヴは、自分が自分がって出る感じではなく、みんなに感謝を、という調和的な内容だった。
ピアノの一音と全世界の空気が等価というか、ね。そこで演奏しているはるかくんと、それを聴いているみんなが等価だった。早稲田スコットホールの内側と外側が等価だった。日本と世界が等価だった、という感じ。
ホスピタリティとはまたちょっと違うのだけど、これが僕なりの答えだし、それは愛だと思います、というのが聞こえる感じがした。

KITCHENの音をこの空間で、クリスマスに楽しめるというのはそれだけで贅沢な感じのするものだけど、あまりにもいろいろなものが等価すぎて、私は何よりもそこに感動しました。

それからJanisとはるかくんの違いというか、同じピアノでもぜんぜん違うんだなーとアホみたいなことを今更ながらしみじみ考えてしまった。女は強し、です。(私は 'SOLITUDE' が大好き)

ほんとに。
いろいろありましたね。今年は。
そのひとの内側のものが露見しまくった1年だったな、と思う。みんなそれぞれに自分なりの答えをもって、来年に向かうのだろうな。
まぁほんとにいろんなことがあったけど、感謝しか出てこない。来年はもっと具体的に、今年露見したいろいろなものを活かしてアウトプットしていきたいなと思います。

素敵な夜をほんとうにありがとう。はるかくん、いつもありがとう。